きょんどう通信

公立小学校の教員 勇気づけの学級づくりに奮闘中

どう見られるかはもういいのだ

ある方のブログをさかのぼって読む。
ツイッターも少し。

今の生活を日常を大事にする、足元を見つめることの大切さはよく分かる。
その通りだと思う。
某SNSへの距離感や良いところをのみ切り取って
書くような是非とそのことで生じる感情もわからなくない。
しっかり考えているな、
自分自身に向き合っているのだなと思う。


と同時に…
「内省する」とつぶやくことも
自分の「何かを見つけるためにこもる」と宣言すること
それもまた承認欲求ではないかと考えた。
今まであんなに外へ外へと向かい、ある世界では著名な人と何度も
意志をもって親しく付き合い、
走ってきたことを鑑みるとそんなことも思ってしまう。


私もわずかの変化にそう強くないし、
浮き沈みもある。
感情的に動くこともあり、今少し走り始めていることを自覚しつつ
描き残している。

発信は意図的。
自慢ととられることは本意ではないが、
依頼をいただいた原稿が形になり世に出ていくのなら
それを紹介し、宣伝するのも書いたものの責任の一つではないかと思うのだ。(私は)

年代、仕事歴、文章を書いてきた量、師匠の姿
こうした違いだろうと思うことにする。
内と外
インプットとアウトプット
描くと描かない
どちらがどうとか
よしあしではない
と思うのであ〜る。
人がどう思うかをあまり気にするのはもうやめにしよう。
人生はそう長くない。
やりたいことをやりたいように自分の責任においてやるんだ。
誰かの返事を待ったり、顔色をうかがったりしながら生きるのは自分に失礼だから。


昨日の師匠の言葉。
「吹っ切れたの?」その時は、「そんなこともないのですが」と答えたが
今なら「ええ、おそらく」と答えるかもね。