きょんどう通信

公立小学校の教員 勇気づけの学級づくりに奮闘中

教育相談研修2

わたしの参加したコースは発展なので、がちのカウンセリングをする、とのこと。ビビリながら始まった。

カウンセラーとしての技能を磨くというよりは、自分がクライエントになり、カウンセリングを体験することで気づくということをねらっていると先生はおっしゃった。

クライエント役のわたしは、実際に今悩んでいることについて話をしたが、カウンセラー役の人の言葉が多くて、強くて、話した!というすっきり感がなかった。35分で自分からストップ。(本当は40分のセッション)
K先生が全体シェアリングが終わったあとで「20分くらいで止めようかなと思ったよ。よくがんばったね」と言ってくれた。「クライエントに助けられたカウンセリングだった」とも。きつかったのでは?ということらしい。「わたしも強いので」と笑ってごまかしたが、もやっとしたままではあった。
確かに、すっきりしたという感じはなかった。話すことで自分なりに整理し、突破口は無理でも何かとっかかりが見えてくるといいなという期待を持って話したので残念だった。そんなに簡単にはいかないか。
でもカウンセラー役の人がわたしのためを思って、アドバイスをしようとしていることはよく分かった。
ただ、わたし自身がまだアドバイスを必要とするところまではいっておらず、もう少し黙って聞いてもらいたいな、自分が話したいなという気持ちを感じた。話して受け止めてもらうことでまた自分が考えることもできると思ったから。答えは自分が持っているので。(←わ〜かなり、コーチングに染まっています。)

当事者になると周りを気にしつつも必死に話しているのでセッションの再現が詳しくできない。しかし、傍観者のみなさんのシェアリングで、カウンセラーが問題の所在を冒頭で早々と確認しようと言葉でくくったようだ。そういわれればそんな気も・・・
もっとゆっくり話す中で確認して欲しいなと感じた。

一件脈絡のない、いったりきたりするまとまりのない話でも、ひとしきり話すことで何か気づくこともある。その話したいときの流れや気持ちを止めてはいけないな、止めないようにしたいなと思う。
そして、日常のカウンセリング的会話や関係性によっては、「ただ聞いて欲しいだけなんだけど」「アドバイスはいらないんだけどね」とあらかじめ相手にいうことで自分のもやもやや考えを整理できるのかもしれないと思った。それがいえる関係ならば、ね。

セッションを見ていた全体指導者のY先生は、シェアリングの最後に5分だけミニカウンセリングをしてくださった。いくつか確認の質問をした後、「あなたは、どうしたいの?」と笑顔で聞かれた。
わたしはしばらく考え、自分の少し先の理想を少しちゃかして言った。
これを聞く前にY先生は「(聞いていると)アドバイスをしなくても、答えは、彼女が持っていると思うよ」と言っていたのもあり・・・答えというか、決定し、選択していくのは自分なのでなにかしら言おうと思ったのだ。
けれどK先生は、「答えるのも優しさ。でも・・・」と別なこともおっしゃった。なるほどな〜とも思うし、難しい。

学校は限られた時間の中で子どもの話を聞くので制約も多く、子ども達に応用することはちょっと難しいのだけれどね。

とはいえ、なかなかない貴重な経験だった。
明日はカウンセラー役をすることになる。