きょんどう通信

公立小学校の教員 勇気づけの学級づくりに奮闘中

哲学と授業論

12日のゼミでのこと。指導教官の指導。
授業が終わった時、子どもはわたしたちの授業をどんなフレーズで表すか。ワンフレーズ。それを授業構想の時にもつ。授業者がまず認識しないと子どもには入らない。
子どもに身につけさせたい哲学がすきまの指導言になる。
なるほどな〜と思う。
最近の自分なら「相手意識」かな。大事なことは、ずっとそれを意識し、言い続けることなんだと思う。

すきまの指導言の例。関西のT先生の言葉だそうだ。
教室のゴミが落ちていたとする。

・先生はごみを拾わない。通り過ぎる。あとで「感動したことがある。分かる?」と投げかける。児童は他のことを次々言う。これはヨイ出しにより肯定的なメッセージを共有できることになる。そしてゴミを拾った児童の行為を全員の前で取り上げ、認める。
・児童がごみを拾わなかった時、あとで言う言葉
「このクラスのレベルはこんなものか。落ちているものさえが見えない君たちに、友だちの悩みや苦しみは見えるわけはない。だから友だちに容赦なく友だちにひどい言葉を言ったり、やったりするんだ。目に見えるものに気がつかない人間が見えないものに気がつくはずはない。」

うなってしまう。見えるものさえ見えない程度なら見えないものはずっと見えるようにはならないよね。大人でも納得の指導言。

以前は「哲学」という言葉がなんだか高尚過ぎて、なかなか自分の中にストンとこなかった。(落ちる、という言葉、子どもに落とすという言葉も好きではない)しかし、ここのところ、実感をもってわかる。指導教官の言わんとする意味が。
1年以上かかってしまった。でも遅くないと思う。

いいゼミでした。