きょんどう通信

公立小学校の教員 勇気づけの学級づくりに奮闘中

勇気づく学びの会にて

先週、参加してきた。
oyanagi先生のお話を聞き、勇気づけや自尊感情については、これまでに結構学んできたつもりだったけど、自分も勇気くじきの対応をしているなぁと振り返る。

一番学んでいた時期は、わたしのまわりには、日々、勇気づけの対応をしている人たちがたくさんいた。また、仕事のストレスも今よりずっと少なかったので、勇気づけを自分が実感できるような、とてもありがたい環境だった。そんなことを思い出しながら話を聞いていた。
なんでもそうだけど、技術だけが大事ではないと思う。けれど、技術も大事だろうから、言葉かけ一つも大事にしたい。

また、自尊感情の話も興味深かった。自分のマイナス(と思える)ところも含めて、それでいいと思えること。なかなかむずかしいけれど、これを育てることでいろんなことがうまくいくのでは?と思う。


翌日は、自分だけが用事を言おうとしてすぐにしゃべるより、意識して子どもの話を聴く、手を止めて聴くを心がけた。朝の時間、つい、提出物のチェックをしたい、あれもしたい…といつも思ってしまう。10分でこれができるなとかつい考える。もちろん、仕事の効率も大事。でも、金曜日だったし、手を止めておしゃべりを楽しもうと思ってそうすると、女の子たちが寄ってきて次々おしゃべり。
こうやって自分から来てくれるんだからありがたいと思う。たまにはこういう時間を生み出したいものだ。

とはいえ、集団を任されている以上、こちらが決めて出さなければならない指示も多くある。「うんうん、それで?」「わかるよ。それでいいと思うよ。」とだけでは終われず、厳しいこと(ことば)を言うこともある。内容によっては、これはダメ!と指導もする。

勇気づけと集団統率は相反しないのか?とちらっと思う。相反するというか、対応する基本場面が違うのかなと。

でも、そうではないかな。
勇気づけが、技術でなく、考え方だとしたら、個だ、集団だと選ばず、いかせるはず。

そもそもこちらの対応が子どもにとって「勇気くじき」と受け取られないようにするためには、信頼関係や安心感がいるかなと思う。前提が必要。(でも、荒れたり、不信感を持っている個や集団の場合、勇気づけを重ねることで、信頼や安心をつくっていくこともあるか)

迫り方はどちらにせよ、集団を受け持つ学級担任として、いつもどこかで「子どもを尊重する」「勇気づける」ことを意識し、実践できるようになりたいなぁ。
人を勇気づけるには、自分への勇気づけも。

そんなことを考えた日。